ゴミ屋敷問題における最終手段とされる「行政代執行」の現場は、日本の行政が抱える法的・福祉的なジレンマが凝縮された場所です。周囲に実害を及ぼし、再三の指導にも従わない場合に限り、自治体が強制的にゴミを撤去するこの手続きは、私有財産権の尊重という憲法上の原則と、公衆衛生の確保という公共の利益が激しく衝突する場となります。執行当日、数トンのゴミがクレーン車で運び出される光景は、一見すると問題の解決に見えますが、その実態は極めて一時的な応急処置に過ぎません。なぜなら、ゴミを溜め込んでしまった住人の精神的な疾患や社会的な孤立という「根本原因」が放置されたままでは、数ヶ月から数年以内に高確率でゴミ屋敷が再発するからです。日本の法制度において、個人の「居住の自由」や「財産権」は非常に強力であり、精神的なケアを強制的に行うことは容易ではありません。また、代執行にかかった数百万円単位の費用は住人本人に請求されますが、支払い能力がないケースがほとんどで、事実上の公費負担となっているのが現状です。これは納税者の不公平感を招くと同時に、行政側の大きな財政的負担となっています。私たちはゴミを片付けるプロですが、寂しさを片付けるプロではありません。私たちは、ゴミ屋敷を単なる不衛生な環境として嫌悪するだけでなく、その裏側にある「清潔という名の暴力性」にも目を向ける必要があります。行き過ぎた清潔信仰は、弱さや混乱を許容する余地を社会から奪い、少しのつまずきで脱落した者を、地下の闇へと押しやってしまうのです。自治体の担当職員は、ゴミの撤去という物理的な作業と、住人の拒絶反応や暴言といった精神的な負荷、そして周辺住民からの早期解決を求める圧力の板挟みになっています。ゴミ屋敷問題の本当の難しさは、ゴミそのものではなく、そのゴミを作り出さざるを得なかった住人の「絶望」をどうケアするかという点にあります。現在の日本のシステムでは、環境部門と福祉部門の連携が不十分であり、代執行という外科手術の後の「リハビリテーション」が欠如しています。行政代執行という強硬手段を講じる前に、いかにして多職種が連携し、孤立死の予備軍とも言えるゴミ屋敷の住人を救い出せるか。そのための制度的なパラダイムシフトが、今の日本には切実に求められているのです。
行政代執行の現場で見える日本の制度的限界